昭和51年04月26日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
これはまぁおかげを頂くための一つのコツの様なもんだと。おかげを頂くコツ、こう言う様な例えば心の状態になれる事に精進したら、又はそうなったら、神様のおかげを下さらん訳にはいかんのです。ままよという心になって、いうならそれをほっておくような気になる。そして神様の方に心を向けるという生き方ね。もう三十年も前の話でしょう。福岡におります時分に、もう商売もいよいよまぁ止めねばならないようになる、もう真近の頃だったと思う。その時分のお金でどうしても一万円のお金がないと。
善導寺方のお月次祭に帰られない。それで帰ります前に一万円、もう借りる処は借りた作る所がない、どうにも仕方がない。それでまぁ神様にお縋りするほかありませんから、当時長浜町から荒戸の教会(福岡教会)までもうお参りして御願いして帰る。またお願いをしてまた参ると。帰っては参り帰っては参り、そうするより他に手がない。神様に縋るより他に手がない。そしたら三遍目のお参りの時だったでしょう、丁度親先生が御結界に座っておられて、大祭前の何んかお掃除があっとりました。
それで「大坪さんご用頂いて帰ってくれんか」と言われて。こちらそんなもんじゃないんですけれども、親先生が言われるから、「ハイ」ちゅうてまぁ残らして頂いて、それから御用まぁ二、三時間ぐらいささせて頂いたでしょう。言うならば」私の心のなかに腹が決まった、もう「ままよ」という心である。それからご用終わってご承知でしょうか、「今はどうでしょうか、その当時は電車通りがあって、その西公園があそこ通り、電車通りがあってまた横の通りがあって教会がある。
で教会を出てから電車通りの手前の方の横通りの十字路の所まで来たときにです、向こうの方から自転車でやってくる人が、なんと私が何十年ぶりに、北京に行く前に椛目での私の竹馬の友、椛目に生野さんという自転車屋さんがあります。あそこの弟息子が福岡で何んか商売をしておるという事は聞いておりましたけれども、何処にいるという事はわからなかった。そしたら丁度そこの十字路のところで、私が教会から出てくる、彼がそのうそんなりそこの十字路を横切ろうとするのとぱったり合った。
はぁ何十年ぶりに会いましたからまぁ「やあやあ」というな訳です。それでまとにかく、「まぁ私そこの唐人町のすぐそばですにいるから、とにかく寄んなさい」とこう言う「実は寄りたいけれども、今日はどうしても椛目に帰らんならん。それでどうしてもその金一万円持って帰らにゃ帰られん事が実はあるとじゃが」と言ったら「そんなら尚更の事ではないかとにかくちょっと寄れ」とこういう訳です。それで寄らせて頂いた。
そしたら自転車の後ろにですね、これ位ばっかりの弁当箱のごたるとをつけとりましたもん、私は弁当箱と思っておった。それをこう解いてその時分は十円を百円づつは丁度あのう一万円というと丁度弁当箱位の太さになる訳です。「今日はねこりゃ本当不思議な思いがけないところで一万円集金してきたと言ちゅう。それ今日集金じゃなかったからそこ鞄も持っていってない、だから自転車の後ろにこうやっていつけてあった。それが一万円、こりゃやっぱあんたに貸さにゃんごと出来とっとばい」ちゅうてから。
ならもうお茶いっぷく頂いてから早よう帰ろうというて帰らして頂いた事があります。本当にあのう縋るというても、「ままよ」という、これは子供の病気と言う様な事だけではない事が分かります。手の尽くしようがない時にゃやはり神様に向かって行く。そういう例の例を話しますと限りがないです私の過去の信心には。昨日は久富さん処の奥さん一年の式年祭がございました。もう本当にあのう真心を込めてのお祭りでした。
この48節を頂きますと、いうならば「わが子の病気でも可愛い可愛いと思うてうろたえてはならない」と言う事は、どういう様な場合でも同じ事です。どう言う様な場合であっても金銭の問題であっても、うろたえんですむだけの信心、同時に言う事を聞かんときには、ほっておくと言う様な気になって、いうなら「ままよ」と言う心を作ると言う事。なら「ほっておく様な気になって信心してやれおかげが受けられる。」と言う事。
これは三つに大体分けられると思うんですが。その「信心してやれおかげが受けられる。」という信心とは、どういう信心をさせて頂いたら良いかと言う事であります。昨日私が霊祭の時に皆さんに聞いて頂いたお話の中に、これは御霊様のお祭りとか大祭とかに限らないのだけれども、例えばその前後を大事にしなければいけません。例えば御大祭なら御大祭を賑々しゅう仕えた。それでよいと言う事ではない。
御霊様のお祭りなら御霊様のお祭りをいうなら沢山なお金をかけて、親戚中を呼んで、おご馳走を作ったりしてそしてお祭りを仕え終わったというだけではいけん。その大祭がいうなら神様に喜んで頂く、御霊様にも喜んで頂くと言う様なお祭りを、仕えさせて頂く為には、その前後を大事にしなければいけない。後先を大事にしなければいけない。是はお祭りだけの事ではない。全ての事がそうである。
お食事を例えばさせて頂くと言うてもそうである。前後を大事にしなければいけない。拍手を打って御神訓を称えて「神様頂きます」とその頂きますという心が出来ておらなければ駄目である。「頂きます」も言わずに頂きますという心もなしに、不平不足うを思うたり、イライラしながらお食事をする様な事をするから、お食事が身に付かんのであり、血肉にならんのである。
「神様頂きますという心あらば当たる事無し」とさえ教えておいられるのですから、真剣にお食事の前に頂きますと言う心あらば、当たることないだけではない。そして終わってから、「有難うございました」と言う心からのお礼申し上げるような生き方になるならばです、必ず頂いた食物もそれは血や肉にもなるだろう。又はこんな食べ物を食べたから、身体に障ったと言う様な事はないおかげが受けられる。後先を大事にする。
自動車を乗るのでもそうである。乗る前にハンドルを握る前に、それこそ「神様頂きます」と言う心、「どうぞ神様今から何処何処までやらして頂きますどうぞ」という祈り。そして向こうに着かせて頂いたら「おかげで無事着かせて頂きました」という後先を大事にするなら、絶対事故など起こるはずが絶対ないです。後先いうなら些細なそう言う事でもです、後先を大事にせにゃならん。ましてやこの霊祭なら霊祭を仕えさして頂くのにです、さぁ何時いつは家内の、または子供達からいやお母さんの霊祭だと。
もう一ヵ月も前から霊祭、霊祭と思いを込めて霊祭を仕えさしてもらう。ただ親戚の者を呼んで、坊さん呼んでご法事をして、沢山のお金をかけてから、そして御霊様も喜ばしゃったじゃろうと言った様な事ではいかん。それまでの前の心遣いというものが大事である。願いに願って、不浄お粗末御無礼がないように、しっかりお願いをさして頂いて、このいうならばお祭りが仕えられえた。
私は御霊様に報告さして頂くのに、御霊様が喜んでくれただろうと思った事は、1番下の妹さんみどりさんというのが、銀行へ今年高校を卒業して銀行に勤めて、昨日一昨日が初給料であった。それで本当に自分が初めて働いて、あのう給料をもらわして頂いたそのお礼が昨日の朝だった。やぁ「今日の初給料のことを、今日の御霊様にお母様の御霊様にあのう届けられるということは有り難い、御霊様が喜ぶことじゃろうね。給料の中から色々お供え物なんかも買わせて頂いた。神様へのお礼も給料のお礼をさして頂いた。
先日あちらの上野清子さんが縁談が調うて、すみ酒が入って話しが決まった。この事も御霊様は、心に残しながら亡くなっておられますから、どんなにか喜ばれることだろう。今日はそう言う様なあとにおかげを受けている様な事がです、御霊様に報告が出来て本当に有り難いお祭りが、より有り難いお祭りが出来たと言う事も、前々から願いに願っての今日のお祭りであったからだといわれる。
そこでその御霊様のお祭りをさせて頂いて、それこそ親戚中の者がね、「金光様の知って御霊様のお祭りをさして貰うとこんなにも有難い物だ」と言う事が分かったという感じでした。皆さん。そしてなら今度は後を大事にする。一年の式年はまぁこの程度だったけれども「お母さん今度の三年の式年祭をつかえる時には、もっと増しなお祭りを仕えさして頂くぞ」と、いえる様な思える様な祈りを持つと言う事なんです、後先を大事にすると言う事は。一年の式年祭が終わったから、やれやれじゃなくて。
この次の三年の式年祭にはお母さん、例えば勇さんのご主人の言葉で言うとそうなる。「お母さん一年の式年祭はこの程度だったけれども、この次に仕えさして貰える三年の式年祭には、もちっと増しの思いのこもった式年祭を仕えさして貰うぞ」と、そういう後先を大事にする信心。それを例えて今申しますとお食事ひとつでもです、金光様の信心をすれば拍手打って「頂きます」と言うて頂きよる。頂き終わったら「有り難うございました」と。御礼を言うておるという。その形の事でなくてです。
本当に頂きますという心。「頂きますという心あらば、障る事も当たる事も無い」といわれる程しの「頂きます」がいえれる信心。こういう生き方が日々続けられておらなければ、今日のですいざという時にうろたえんならんです。同時にそういう目の詰まった信心が日頃出来ておらねばです、日々こういう信心をさせて頂いておる所からです、例えば突発的な咄嗟な色んな事が起きて参りましても、その時に信心の度胸が出来ますから心が座ります。「ままよ」と言うてほっておけれる心が生まれてまいります。
日頃信心を疎かにしておる、目の粗い信心をしておる、だから慌てんならん。だからいよいよの時にです、例えば私に福岡の先生がそういうのっぴきならない事情に私があった時に、「大坪さん大祭前のご用をして行ってくれんか」といわれたとき、「先生じつは今日どうでも早よう帰らにゃならん用件がありますけん」というても良い訳です。けどそういう時に腹が決まる言う事は、常日頃いうなら目の詰まった信心が出来ておるから、その時腹が決まった。
ままよとその方はほっておけれるようなおかげを頂いた時にです、それこそ広い福岡の市内で何十年振りに会うた人、その会うた人が私がどうでも要るというを一万円の金を不思議に集金して帰っておる人にあって、話して貸してくれとも言わん。そんならばそんならば「これを持っていけ」と言った様な素晴らしいタイミングが生まれてくるようなおかげが頂かれるのです。だから理屈は子供の病気とここにありますけれども、子供の病気だけの事でありません。一事が万事にそうなんです。
それにはねその時だけそんならね、「ままよ」と言う気になれというてもなかなかなれません。心配が先に立ちます。「さぁそのそげんうろたえなさんな、何のために信心しよんの」というてもです、やっぱりうろたえます。そこで私は今日はね、「信心してやれおかげが受けられる」と「ほって置くような気になって信心してやれ」その信心してやれと、そう言う時にはいよいよ目の詰った信心をさして頂くんですけど、そういう信心がです常日頃出来ておらなければいけないと、言う事で御座います。
だから一事が万事になら皆さんまぁ自動車でみえるでしょう。みえたらやはり私はハンドルを持つ前にいうなら「神様頂きます」例えば今日はならただ今から帰らして頂きます」という気持ちに成らして頂いて、家に着いたら「おかげで無事帰らせて頂きました」という後先を大事にする生き方、これはもう一事が万事がそうです。今からいろんな御用にたずさわらして貰う。女の人がお食事を作る時に作る前に、先ずいうならばマッチを拝み火を拝み、いわば今から料理さして貰う、いうなら魚を拝みと言う様な生き方。
それを作り終わらして頂いた時にまた拝む、そういう生き方になったら、皆んなが「美味しい美味しい」と言ってくれるようなものが出来る。先日若先生がいうとりましたが、この頃からお話しとります本部の金光太郎先生のことです。あの人が学院にあのう入りました。ここではあの人が一番早いですが。あの人が学院に行ったその年からあのう学院の賄いを辞められたそうですが、もうそれはもうお野菜ならお野菜の前に必ず暫く御祈念があるそうです。その時の話をながら。
若先生が話しとりました。言うならば調理に掛かられる前に、先ずその野菜を拝まれる。だからもう絶対粗末どんがある様な事はない程しに、きれいに使われとったそうですね。いうなら後先を大事にしていうなら拝み抜いておられた。私が今日皆さんにいうのはね、そういう意味においての「神様頂きます」」ですよ。お食事でもただポンポンと手を打って御神訓唱えればそれで四かと言った様な事ではないです。本当にこの食物が血肉になるようなおかげ頂くためには、真剣に今日今から頂けれる事が有難い。
そこには甘いの辛いと不平不足は出ないでしょう。そして頂きよったら、頂き終わったお礼を申し上げる。これならもう絶対食べ物が血肉になる。ならその自動車なら自動車でもです。いま私が申しましたような前後を大事にする信心なりゃ、事故なんか起こることは絶対にないです。だからそれが言うなれば信心なのですから。そういう信心をここで「信心してやれ、おかげが受けられる」と仰っとられるのは、いま私が申しますような信心。昨日霊祭を仕えてその霊祭の前後の。
いうならば前後はその霊祭を仕えるまでの、久富さん一家の信心というものが、祈りに祈り願いに願って仕えられた。仕え終えられてもう是で良かった。済んだではなくてその後を大事にしなければ。次の是で良いと言う事はない。どんなに真心込めてしても足らん物ばっかり。そこで「この次の三年の式年祭にはお母さんまちっと増しなお祭りを仕えさして頂くおかげを頂くからね」と言う様な後を大事にする、先を大事にする一切の事に前後を大事にする。そういう信心を私はしてやれと言う事であると思います。
「信心してやれ」とはそう言う事。ただ参ったらよい拝んどれば良いという事ではない。そういう信心を日頃さして頂いて身に着けていって、信心が血になり肉になっておりますから、ならまさかの時突然の時にうろたえんで済む。又は例えば自分の事情なんかいうておれんで、「大坪さん御用頂いてくれんか」と言われりゃ「ハイ」というてご用頂けれるような、いうならば度胸も出来てくる、日頃の信心が出来ておらねばばならない。今日は48節から、お互い全ての事の後先を大事にさして貰う信心を聞いて頂きました。
どうぞ。